Guidebook for Kokurakita-ku, Kitakyūshū-shi

Tomo
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Sightseeing

慶長7年(1602年)、細川忠興公が築城した小倉城  関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。  小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種たかはしあきたねや毛利勝信もうりかつのぶが居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興ほそかわただおきによって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。  忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。  細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真おがさわらただざねが、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。  この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。  小笠原忠苗ただみつの時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。  幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。
12 người dân địa phương đề xuất
Lâu đài Kokura
2-1 Jōnai
12 người dân địa phương đề xuất
慶長7年(1602年)、細川忠興公が築城した小倉城  関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。  小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種たかはしあきたねや毛利勝信もうりかつのぶが居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興ほそかわただおきによって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。  忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。  細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真おがさわらただざねが、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。  この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。  小笠原忠苗ただみつの時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。  幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。

Arts & Culture

世界遺産 官営八幡製鐵所関連施設 平成27年7月に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成施設として、官営八幡製鐵所関連施設が登録されました。官営八幡製鐵所関連施設は、現在も稼働している製鉄所の中にあるため一般公開されていませんが、離れた場所から旧本事務所(1899年)の外観を眺めるスペースが設けられています。
官営八幡製鐵所修繕工場(世界遺産)
Ogura Yahatahigashi Ward
世界遺産 官営八幡製鐵所関連施設 平成27年7月に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成施設として、官営八幡製鐵所関連施設が登録されました。官営八幡製鐵所関連施設は、現在も稼働している製鉄所の中にあるため一般公開されていませんが、離れた場所から旧本事務所(1899年)の外観を眺めるスペースが設けられています。